今年の暑さも凄すぎだ
お盆休みも終わり、残暑って時期ですが
残暑どころか猛暑の中の猛暑
浜松市では歴代1位タイの41.1ですって。
海も湖もある水の街なのにね。
夏バテしませんように (*_*)
お盆の時期になると、かつて母から聞いた
終戦後の話を思い出します。
母は戦争のことを話すのが好きではなく、
興味本位で戦時中のことを母に尋ねると、
チラッとホンのさわりを話すだけで、
「もう、忘れたよ」と言って
ほとんど話してくれなかったんです。
そんな母がいつもよりたくさん話してくれたことがありました。
とってもリアルな話しで、
これまで耳にしたこともなかった話だったもんで
ホント 聞いた瞬間は絶句。
驚いたというか、そんな隠れた事実があったんだ。って
何とも言えない複雑な想いにかられました。
ちょっと、お話につき合ってください。
今から75年前の8月15日
誰もが知っている終戦の日ですね。
1945年8月15日に日本は戦争に敗れ終戦を迎えました。
戦争って悲しい出来事で肯定するものではないと信じています。
世界で戦争や紛争がなくなることを心より願っています。
戦争末期から戦後の時代
当時、日本は食糧不足で食べ物が足りていなかった。
餓死する人の数も半端ではなかったそうです。
実は、
戦没者のうち戦いで亡くなった軍人は
全体の4割だったんです。
残りの6割は餓死や病死。
6割の軍人さんは、戦って死んでいったのではなく、
想像を絶する過酷な環境に置かれた中で
お亡くなりになったんです。
戦争を伝える物語やドラマ、映画などでは、
こういった軍人の戦いがフォーカスされ作られています。
色々な映画やドラマなどを見ると
切なくなり、悲しくなり、いまの平和を愛おしくなります。
そんな想いにかられるのですが、
しかし、
もっと目を向けなければならない事実、
もっと知っておかなければいけない真実があるんです。
それが、母から聞いた話です。
戦時中は日本全体が食糧不足でした。
ゆえに、
軍人以外の女性、子供、老人といった一般の国民も
何十万人と餓死をしているんです。
終戦間近には、
アメリカ軍による本土爆撃が至る所で行われました。
空襲は言語を絶する攻撃だったそうで
都市部や日本軍の軍事施設周辺は毎日が・・・・
いや、
毎時間が死との境界線の中で生きていたそうです。
この頃になると物資はなくなり、
金属製品はすべて回収され、
食料はわずかばかりの配給。
都市部にいた人達は誰もがひもじい思いと
戦っていたそうです。
しかし
都市部や軍事施設から離れた場所では
空襲もなく、田畑で農作物を作れていたそうです。
決して平穏ではないでしょうが、
都市部の惨状に比べたらまだまだ安泰だったんです。
農業を営んでいる農家は自分で作物を作るので
充分に食べていけました。
食べ物にはまったく困っていなかった。ってことです。
当時の一般的な食糧事情は
軍上層部>>>>>>農家>>軍人>>>>都市部一般人
都市部の人達は、農家に食料を分けてもらいに
家財道具や着物などと食料を交換して命を繋いでいたんです。
良心的な農家も多くいたらしいのですが、
なかには、高価な着物などで、
2つ3つのわずかばかりのジャガイモと交換する強欲農家もいた。
物々交換と言えど、農家の言い値で交換するしかなかったんです。
物は残りますが、食料は食べれば無くなります。
あれよ、あれよと言う間に家財道具はおろか、
服も着物も交換してしまい
もう、なにも交換する物が無くなってしまう人達も出始めます。
交換する物がなければ盗みに入る。
見つかれば撲殺されることもあったそうです。
じゃがいもの1個や2個で。
道端に撲殺された亡骸が無造作に横たわっていた。
そんな光景が珍しいわけではなかったそうです。
このあたりは映画「火垂るの墓」で見ることができます。
もっとも、
映画ではかなりオブラートに包んでいるようで、
事実は凄惨を極めたようです。
田畑を持つ農家は物々交換で物を蓄え、
骨董品やら、歴史的な貴重品なども
手にしていたそうです。
ついには、
農家には物があふれ、着物などは価値を持たなくなり
強欲な一部の農家は婚礼衣装でさえも大根2本程度。
高笑いをしながら、
農家同士で交換物の自慢をしていたんだそうです。
戦争が終わり
食料供給も少しばかり安定したころ、
御殿のような家を新築する農家が溢れたのも事実だそうです。
戦争で人間としての尊厳さえ、
ぼろ雑巾のようにされた人がいる中、
人の弱みに付け込み御殿を建てた人もいる。
日本人として悲しい思いに心が痛みました。
あなたはどうな思いを感じますか?