代表プロフィール

実は、あがり症だったんです。

僕とあがり症との戦いは幼少期にまでさかのぼります。
そう、保育園児だったころ。
年齢は4歳だったろうか? それとも5歳か。

いまでもハッキリとそいつが現れたその日その瞬間を覚えている。

とても仲の良かった女の子「りかちゃん」と職員室に行き、
保育園の園庭で起きた事件を
先生に伝えなくてはいけなかった時のことでした。

 

先生を前にして、おさな心にもしっかりとお行儀よく話さなければと思ったのだろう。
「りかちゃん」のことを「杉山さん」と口にした時、
まさにその瞬間にそいつは現れたのでした。

 

普段と違う言葉を使ったことで、気持ちに変化が起きたのだろう。

 

突然として足はすくみ、胸はドキドキして、息苦しくなる。

 小さいながらも、あせりと緊張が体を襲い、
ついには話すことができなくなり、泣き出してしまった。

この瞬間から、僕とあがり症との長い戦いが始まったのです。

 




小学生の学級会でのできごとでした。
いまでは、その時にどんな議題で学級会の話し合いが
行われていたのか覚えていないのですが、

クラスの意見が真っぷたつに分かれていたことは記憶に残っています。

 

当時は40名ひとクラス。  とても難しい議題だったのでしょう。
意見のやり取りは白熱し、冷静ではいられないクラスメイトが
大きな声を出す。

おとなしい子は、その声の大きさに何も言えなくなってしまう。

議題は大きな声をあげられる人間を中心に話しが進む。

 

クラスメイトの意見を聞いているうちに
僕も僕の意見を発表したいという思いに駆られた。

すぐさま頭の中で自分の主張を何度も何度もまとめる。

この頃には、すでにあがり症の自覚があったのだ。

だからこそ、しっかりと意見を発表しようと思い、
何度も繰り返し頭の中で意見をまとめた。



しかし、思いと体の反応は大きく異なる。

意見をまとめている時から、
心臓がバクバクと音を立てて鳴り始める。


指先は血の気が引き、冷たくなる感覚が手に取るようにわかる。

まだ、みんなの前で自分の意見を一言も発していないのにだ。



僕はドキドキしながら意を決して手を挙げた。

 

学級委員長と目が合い、意見を求められる。
ひと際心臓がドキンとしたのを覚えている。

 

「さ・・賛成です」

 

足を震わしながら言えたのはたったその一言だけだった。

極度の緊張で言葉が続かなかったのだ。

 

肩透かしを食らった賛成者の冷たい視線が僕を突きさす。

僕は唇をかみ、下を向くしかなかった。
残ったのは恥ずかしさと、みじめさだけだった。

もう、人前で話すのはやめよう・・・。

いつしか学級会は、僕を置き去りにして進んで行く。

 

大勢を前にしてお話をすることに苦手意識をもってしまい、
自分をあがり症で臆病者の弱虫と決めつけていました。

このことは、僕の人生にマイナスはあるものの、
プラス要素にはならないと、
ことあるごとに頭を悩ませていたのです。

 

事実、
人前でカッコよく話す友人は、やはり女性にモテていました。
人前でハッキリ自分の意見を言える友人はリーダー的な存在でした。
人前で大きい声を出せる友人は一目置かれる存在でした。

それらの友人は僕の憧れでもあったのです。

そして、人前で意見を言えない僕の人生経験は
ひとつの哲学を生み出したのです。

 

人前で多くの意見を述べることができる人間、
そして、
人並み以上に大きな声を出せる人間に、人は集まり、
その人間に他者は寄り添い、従ってしまうもの。

 

これは紛れもない事実であり、声を出すことができずに
学生生活を過ごした後悔ありきの僕の学びとなったのです。

この後悔をいつしか必ず覆すと決意して、
僕は社会人へと旅立ったのでした。

 

 

僕の最初の就職先は町の小さな広告代理店でした。
あがり症のくせに、営業の仕事についてしまったのです。

 

人前で話せないもどかしさと、人並み以上に緊張してしまう体質。
少しでも克服しようとの思いから営業の仕事を選択したのでした。

 

しかし、思いとは裏腹に毎日が苦痛の連続でした。
来る日も来る日も、新規飛び込み営業が続くのです。

訪問先の企業に行くだけでも緊張でドキドキになり、
いざ担当者と会うと、あがり症のため上手く話せなくなってしまう。

 

2~3件断られると、4件目には足が重くなり、営業車に引きこもる。

小一時間、過ごした後、2~3件回っては、足が重くなる。
ついには緊張と、断られる恐怖心で、

1日中、車の中で過ごす日が増えるようになってきたのでした。

頭では営業先に向かわなくてはいけないと思いながらも、
体が動かないのです。

 

こんな日の繰り返しでしたから、上司からの罵声は日常的でした。
営業先で辛い思いをして、帰社しても辛い思いをする。
自分がどんどん小さな人間に思えてくるのでした。

 

すべては、自分自身の根性のなさと、極度の緊張症によるもの。
カッコつけて営業の道を選択したことを何度も何度も後悔しました。

朝、目覚めるとどこか体の具合が悪くないか探すようになりました。

具合が悪ければそれを口実に
会社を休めると考えるようになったのです。

 

しかし、そんなことはただの現実逃避にしか過ぎません。
仮に具合が悪かったとしても、治れば出社するしかない訳ですから。

いっそのこと、退職しようと考えたこともありましたが、
経済的にそれを許せる立場ではありませんでした。

 

家を出る時に、こんなんじゃダメだ。もっと強くならなければ、と
はっぱをかけて出社する毎日が続いたのです。

 

行き場のない毎日が続き、将来が見えず、
自分だけがいらないような気がしていました。

 

来る日も来る日も、
ともかくなんとか現状を打破しなければいけないと
毎日が苦悶の連続でした。

 

昨日と同じ今日を過ごしても何も変わらない。
今日と違う明日を迎えるために、なにか行動を変えなければと
強く思い始めたのです。

 

 

悩んだ末に自腹で営業のセミナーに参加することにしたのです。

参加費用は316,000円で、
月に2回の勉強会が開催される半年間の講座でした。

もう、かれこれ25年以上前の話ですから、
今の金額に換算すれば50万円以上でしょう。


社会人になりたての僕にとっては莫大な金額でしたから、
参加をためらう気持ちもありました。

それでも受講を決心したのは、
つらい日々を1日でも早く脱却したい。

その思いだけでした。

 

この決断が、
後に僕の人生を大きく左右する瞬間になったのです。

もちろん、
この時にはこの後におこる僕の未来など知る由もありません。

 

 

意を決して参加を決めたセミナーでしたから
勉強会には欠かさず参加をして、一生懸命に学びました。
それこそ、一言一句聞き漏らすまいと必死に食らいついたのです。

その勉強会に登壇していたのが
後に僕の1人目の師匠となる鶴岡
講師でした。

 

鶴岡講師の教えるセールススキルは、特別のものでしたが、
それ以上に圧巻だったのが、その話術だったのです。

 

惹きこまれる魅力的なトーク、プロの落語家以上の面白さ、
信頼感抜群の自信に満ちた言い回し。

どれをとっても匠の域を超える話しっぷりだったのです。

 

本当に憧れの存在で、分かりやすく、面白い話に惹き込まれながら
セールススキルが身についたのです。

あの当時は鶴岡講師の勉強会に参加するのが
1週間を生きる楽しみと感じるまでになったものでした。

 

その憧れの鶴岡講師から驚きの発言が飛び出したのです。

「私でも登壇する時は毎回あがるんですよ」
「いまでこそ、このように人前で話をしていますが、
 私はもともと、どもりだったんですよ」
「どもりで、人前に出たくないから、職人として働き始めたんです」

僕は驚きました。鶴岡講師でさえも、あがるのだと知ったからです。
さらに、学生の頃はどもりで僕以上につらい思いをしてきたのだと。

 

 

このカミングアウトは衝撃でした。
衝撃と同時に僕は希望の光を見た瞬間でもあったのです。

なぜなら、
このセミナーはセールススキルと同時にトークスキルも
学べるセミナーだったのです。

 

この日から、僕は少しづつ変わり始めました。
まずは、鶴岡講師を真似するところから始めたのです。

言い回しや話のテンポ、ところどころに入れるジョーク。
そのすべてをモノマネから入ったのです。

 

するとどうでしょう。
あたかも鶴岡講師のようにしゃべり始められるようになったのです。

 

その姿を見た鶴岡講師の目に留まり、
「おまえ、おもろいやっちゃなぁ」と

人前での話し方の指導をしてくれるようになりました。

話し方の基礎はもちろんのこと、
笑いをとるためのジョークの入れ方など
人前で話すためのあらゆるテクニックを教えてくれました。

 

そしていつしか、ミニ鶴岡とあだ名されるほど
真似ができるまでになったのです。

 

こうなると人前で話すことに自信がつき、
営業にも活かされるようになってきたのです。

結果、営業成績はグングン伸び、
クライアント先でもあった東証一部上場企業の営業部門から、
スカウトされ、転職をすることになりました。

さらに、その上場企業でセールス理論を買われ、
1つの事業部の社内営業研修講師に抜擢されたのです。

営業理論とトーク術は、
営業セミナーで学んだものを活かしたにすぎません。



今思えば、僕の人生を大きく変えた分岐点だったのです。
鶴岡講師への感謝の念は言葉に表すことができないほどです。

 

もちろんその頃には、あがり症は完全に解消しています。

あれだけビクついていた態度はどこへ行ってしまったのやら。
いまや、堂々と、ジョークを交えて話す僕がそこに立っていました。

僕はあがり症対策の学びはいっさい受けていないのにも拘らず
あがり症を克服できたのです。

 

僕を成長させた物語は続きがあります。

僕にはもう一人、スピーチの師匠がいました。
その方はITベンチャー企業の社長でした。

 

ベンチャー企業ゆえ、事業資金を投資家より募っていました。
その社長は投資家向けに事業説明会を開催し、自ら演台に立ち
億という単位のお金を調達します。

その資金を元手に商品開発し、販売手法として
FC事業、代理店事業を展開し、商品を世に広めていたのです。

 

言わば、
資金調達から商品の流通までを
セールスプレゼンテーションひとつで
事業展開してきたと言っても過言ではありません。


驚きの事業展開だと思います。

 

実は、この事業展開の成功にはあるスピーチ術の存在があるのです。
その社長は、表にはなかなか出てこないスピーチ術、

「信者のスピーチ」の習得者でした。

 

信者のスピーチとは、
3割を信者にし、4割に感動を与え、その他から嫌悪されろ。

この考え方が信者のスピーチ論です。

 

民衆に影響を与えるスピーチでは、
この技術が使われているといいます。

信者のスピーチに影響を受けた人物は
紺色のスーツに白のワイシャツ、そして赤のネクタイを着用します。
あなたもきっと、どこかで見たことがあるでしょう。

 

そのITベンチャーの社長から、僕は幸運にも手ほどきを受けました。
認めた人物以外、1,000万円を積まれても教えることはない。と
言っていた信者のスピーチの一部でも学ぶことができたのです。



社長の代役として、事業説明会にも立たせてもらえました。
1回のプレゼンで5億円を超える取引を何度も成功させ、
その驚異的な威力を体験することができたのです。

 

さて、ここまでお話しさせてもらったように
僕には伝説的なスピーチのメンターが2人存在しています。
ひとりからは、あがり症克服とスピーチの基礎を。

もう一人からは、人の心に入り込む信者のスピーチ術を。

 

この2つのスキルを使えば、
あなたのスピーチ能力を覚醒させることは、
いとも簡単なことです。

話し方教室や、ボイストレーニング、アナウンサー養成塾などでは
決して学べないトレーニングがここにあります。

幸運にもこのサイトを訪れることのできたあなただけが
このトレーニングを受けることができるのです。

 

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